濃尾平野は海だった test test test (0000)
「養老元年(西暦717年)、濃尾平野は海だった! 」
「木曽川の河口は犬山だった。」と見える。
犬山城下から先の犬山扇状地は水の中。
だが、犬山から木曽川の河口までは45Kmほども先。
広大な遠浅の海(汽水湖)の波打ち際だったろう。
鵜沼、内田、木津(こっつ)は湊町といったところか。
中島(一宮)、枇杷島、津島、長島はまさに「島」。
地理学者から「古東海湖」と聞いたことがある。
(今、もしも海水面が40m上昇したらこの図に戻る、か)
この古地図が描かれたのは、
藤原京から平城京遷都(710)。天武天皇の国史編纂事業がすすみ古事記(710)や日本書紀(720)ができたころ。
”鳴くようぐいす平安京”794年の平安遷都よりも前。
養老年間には、弥生の時代から続く「米」や「弓矢」の献上品(その実、現物の納税品)の舟が往来したことだろう。
平成24年9月羽黒小学校の旧い教科書や収蔵品展示で発見。
45年ほど前、だれかが複製した古地図をあらためて見る。
850年後、織田信長が尾張上四郡・下四郡を統一するが、
昔は「古東海湖」の水面下だったのだ。
900年後・・天領木曽の御用林から用材を運び出すのは、
徳川家康が江戸に幕府を開いてからの話し。
鵜沼側には中乗りさん、松倉には川並衆だった家系が多く残る。
[脚注] 本図は猿投神社収蔵品が原図で、その流布模写図から引用した。